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面倒が起こる時

  • 執筆者の写真: AICF Japan
    AICF Japan
  • 5月1日
  • 読了時間: 2分

先月のことでした。宣教旅行帰りの飛行機が、航空当局の都合で到着する空港が飛行中に伊丹から関空に変更になりました。車も伊丹空港にとめていたし、色々と面倒なことになり、その時は大変でした。到着した空港では、多くの乗客がストレスをためていて、弁済される関空から伊丹までの交通費程度では納得できない様子でした。その便が夜遅い到着になったこともあって、私も、伊丹空港に車を延長して駐車することになり、そういった追加駐車料金や後日に車を取りに行く電車賃など、どうにかしてもらえないものかと思いましたが、何も言わないことにしました。


人生には、このようなことが時々起こるものです。そのような時私たちは、「誰のせいでこうなったか」と責任を追及し、補償や弁済を求める“権利”を主張します。そして多くの場合、その主張は正当で当然のものと言えます。その“当然のもの”を求めて、それが与えられるまで断固として闘うという人たちもいます。確かにそれは悪いことではないのですが。


しかし、そのような“闘い”をしながら生きるようになると、何か大切なものを失って行くことにもなります。その何か、というものは、なかなか気づかないもので、ずいぶん時間が経ってやっとわかるようなものです。


キリストに在る者、在ろうとする者は、面倒な出来事が起こる時、それが起こることを神が許された、あるいは神がそのようにされた、と受け取り、その出来事にどのように向き合って行くのが御心なのか、について考えて対応して行きます。落ち着いて考え、神に立ち返り、何かが失われても無くなったと考えず、そこからあらためて神に目を向けて進むのです。そうすると、神が何かをして下さる、あるいは何もされなくとも、それでよいと考えて歩むのです。あとから振り返れば、大抵の場合その出来事は大したことではなかったと気づくでしょう。そのように歩む人を、神は確かに祝福して下さるのです。

Pastor Takeshi

 
 
 

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